オンマラ様/マラを吊るして厄除け

(2018.1.14)
道祖神祭り、通称オンマラ様は群馬県神流町で行われている祭事である。



神流町というと高崎市在住のわたしはほとんど馴染みがない埼玉県との県境にある町だ。オンマラ様が開催される間物地区はその中でも特に埼玉県小鹿野市と隣接したところにあり、その姿は限界集落に近い。

お祭り、特に性神のお祭りというと大きな男根を神輿に乗せてワッショイワッショイなんていう光景をついつい想像してしまいがちだが、この小さな村では行う祭事は極小さなものである。


1月14日、朝十時。祭事はまず「オンマラ様」の制作から始まる。


ここ10年ほどは同じ方がオンマラ様作りを担っていたそうだが、今年は忌み事があり参加できないという。なんでも葬式などの忌み事があると祭事には参加できないというルールがあり、今年度はそれに該当する村人が多かったのだそうだ。その為、例年より参加人数はぐっと少なく、しめ縄も市販の物で代用するという。

これが去年のオンマラ様。




オンマラ様は橋の上に渡したしめ縄にぶら下げるものである。一年間ぶら下げたあと、下ろしてその任務を終える。

今年は上記の理由によりオンマラ様作り初体験のお父さんが制作の大役を任されていたため、下ろした去年のオンマラ様を見本にして制作を進めた。初めてのオンマラ様作りということもあり、定規を使って測りながら丁寧に削っていく。予備の木もきちんと用意されていた。



祭事はどんどん縮小して人手も足りないが、女性が参加することはないという。祭りは基本的に男性が主体となることが多いのに加え、この祭りが開催される1月14日というのは小正月にあたり、正月で働いた女衆をねぎらうものであるというということも理由のひとつかも知れない。
また、隣の上野村から来たという見物人の方が「昔はうちのところにもこんなのあったけどなあ」と言っていた。このような祭事はどんどん消滅していっているのだろう…。

小一時間ほどで、今年のオンマラ様と、オンマラ様をぶら下げるしめ縄(これも昔はもっと時間をかけて長いものを手作りしていたそうだが、今年は市販の物)、そして飾り付けのしめ縄が完成した。飾り付けのしめ縄は村人が手際良く作製していた。以前はしめ縄作りに時間がかかったので、一日仕事だったという。



見本としてお世話になった去年のオンマラ様は、すごい勢いで火にくべられて燃やされていた。余韻もクソもない(笑)


ニュー・オンマラ様・2018をしめ縄にくくりつけ、橋の上に渡す。



日光に照らされたオンマラ様は神々しさすらある。
オンマラ様の先端が向いた方に子宝がある、という言い伝えがあるそうだが、オンマラ様はくるくると回る。地元の方の「もう向いたところで妊娠するような奴なんかいねえ!」という過疎化ギャグが悲しく山あいに響いた…。


最後に橋の上にみんなで立ち、オンマラ様の向こう側にある諏訪山に向かって「おー(い)、おー(い)、おー(い)」と呼びかけて終わる。全部で二時間程度の祭事であった。

女神である山の神に男根を供えるという”山の神への信仰”は古くからよく報告されているので、そういうことなのかと思い村人に聞いてみたが「よく分からない」と言われた。

そう、このオンマラ様に限った話ではないが、辺境の祭事は「よく分からない」ことが多い。

まずこのオンマラ様について地元の方が立てた解説板を見てみたい。

鎌倉時代も宝暦二年のこと、間物村落にコレラが大流行し人々は大変苦しんでいた。その時通りがかりの六部が疫病退散の良い知恵を授けようと次の通り教えてくれた。「村はずれの川下の小さな女性器と大きな男性器を作り、道切りとして地上高く張り上げて吊しなさい。疫病はこれでは入らん。入らないとたちまち退散するであろう」六部の教えるとおり宝暦二年のオンマラ様行事開始苛この村落は疫病魔に襲われることなく村人は安らかな日々を送っている。

こうあるものの、鎌倉時代には宝暦という年号は存在せず、もちろんその頃はコレラも流行していない。
宝暦二年と言えば江戸中期に当たるが、日本におけるコレラの初流行は江戸後期なので、いずれにせよ年代がおかしくなる。

この点については村の方も気づいており、そのせいかこの案内板はすっかり朽ち果て片隅に追いやられていた。

しかし「オンマラ様を祀る橋より川下には確かに昔から家がなかった」と仰っていた村の方もおり、コレラではないにせよ何らかの疫病などから村を守る”塞(さえ)の神”であった可能性は十分にある。
道祖神もその多くはまさに”塞の神”の性質を持つものであり、村の辻や境界に置かれ、外からの厄を避ける役割を持つものである。実際オンマラ様は辻の近くの橋の上に掲げられていた。
またしめ縄を張って結界を作るのは勧請縄と言って特に近畿地方で多く確認される一般的な習俗だ。

また、この集落には平将門の妻である駿河姫に関する伝説と姫を祀った駿河大明神の祠も残されており、そちらにもオンマラ様との関連を語る口伝があるという。
この駿河姫の伝説とオンマラ様との関係について『秩父の民俗:山里の祭りと暮らし』が紹介していたのでそのまま引用したい。


秩父には平将門に関する伝説が非常に多い。(中略)城峰山から群馬県境にかけた地域にも将門伝説が多い。 
間物集落の叶山には相馬神社があり将門が祀られている。また上ヶ原には将門の妻であった駿河姫が祀られているという。 
間物集落では下はずれの道端にある祠が駿河姫を祀った「駿河明神」あるいは「スルマネ明神」だという。なぜスルマネ明神かと尋ねると、将門が滅ぼされるとその妻駿河姫は一人の忠義な家来につき添われて、石間城から志賀坂を越えてこの間物まで逃れてきた。明日の命も知れない状態の中での姫(女)と家来(男)である。間物まで来て家来の男は美しい姫に愛を打ち明け、関係を結ぼうとしたが、姫に強引に断わられ、結局する真似で終ったという。それからスルマネ明神と呼ぶようになった。これが由来であるが、さらにこの話にはおまけがつく。二人が住んでいた屋敷跡には今でも「フキの葉」に穴のあいたのが生えるという、このフキの葉の穴については、前の話をさらに詳しく説明しなければならない。すなわちある日とうとう自分の欲情を押えきれなくなった家来の男は、姫に心を打ち明け望みを達しようとした。姫は仕方なくフキの葉で大切な入口をふさぎ、その上からのスルマネだけにとどめてほしいと懇望した。しかし勢いづいた男のモノはフキの葉を 突き破って姫の操を奪ってしまった。姫は深くそのことを嘆き悲しみ自害し果てた。そのため今でも姫の怨霊によって、フキの葉にはみんな穴のあいたのが生えるという。昔は祠の周辺に一ぱい生えたが、信州や秩父から往き来する旅人たちがめずらしがって抜き去り、今では少なくなってしまったのだと、古老はいともまじめな顔つきで話してくれた。おんまらさまの祭りもこの駿河姫にまつわる伝説からはじまったといわれている。


つまり、家来が姫に肉体関係を迫ったら「フキの葉越しならいいよ!」と言われて、やってみたら勢いづいてフキの葉を突き破ってウッカリまぐわっちゃったよ!という話。

いろんな意味ですさまじすぎだろ(笑)
しかもそれにショックを受けて自害するくらいなら最初からフキ越しにやるとかいうギリギリプレイなんてするなよ、姫。

いくつか異伝も伝わっているようだが、大まかな筋(というかスルマネをするくだり)は上記の通りだそう。

しかし『秩父の民俗』の著者である栃原氏はこの伝説をオンマラ様発祥の由来とするのは後付けであるとして、オンマラ様は「外からの厄を除ける道祖神祭り」と「諏訪山の山の神を山に送る農神迎え」が祭りの中心であったのではないかと述べている。

おそらく栃原氏の言うとおり、この伝説が直接オンマラ様の発生に繋がったとは考えにくい。実際祭りに参加した際にも村人からこの伝説の話は一切出なかったのだ。

また諏訪山に呼びかけるという行為は農業・狩りに関する信仰があったことを想像させるし、小正月に道祖神を祀って豊穣を祈念する習俗は全国的に見られるものである。
塞の神である道祖神としてのオンマラ様に山の神への信仰が習合し、更に駿河姫の伝説や子宝の信仰などがどんどん重ねられていったというところだろうか。オンマラ様が向いた方に子宝がある、というのもあとからの付会だろう。

原初の信仰ははっきりとは分からないが、現在まで細々ながら続いているのはすごいことだ。来年、このオンマラ様が朽ち果てたところをまた見に行きたい。


参考資料:栃原嗣雄『秩父の民俗:山里の祭りと暮らし』、倉石忠彦『道祖神と性器形態神』



日程:毎年1月14日
時間:2018年は10時より開催されたが、年により変更することもあるので要確認
〒370-1602 群馬県多野郡神流町神ケ原981-1



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